TOPページ > 人々の手で守り引き継ぐ地域の宝「通潤用水と棚田景観」

通潤用水と棚田景観

通潤橋、通潤用水と白糸台地をご紹介します

「村民を救いたい」という思いから生まれた日本最大の石造り水道橋の構想

深い谷に囲まれた白糸台地に暮らす人々は、かつて水不足に苦しんでいました。農業用水はおろか生活用水にさえ事欠く村民の窮状を救いたいと、時の惣庄屋(村長)である布田保之助(ふたやすのすけ)は、この深い谷を越えて台地に水を送る通水橋の建設を決意します。 建設を依頼されたのは熊本県を中心に活躍していた技術者集団「種山石工(たねやまいしく)」。しかし、数々の石橋を造り、高い技術力を誇った彼らにとってさえ、深い谷に架かる通水橋の建設は難題であり、一度は断ったといわれています。それでも保之助の決意は揺るがず、「種山石工」も自分たちの持てる技術と知識を総動員して、嘉永5年(1852)、全国でも類を見ない通水橋の建設が始まったのです。

布田保之助の銅像

円形分水

住民の熱意と石工たちの高い技術によって完成

村民にとって水の確保は悲願であったし、日ごろから村のために尽力してきた保之助への厚い信頼もあったのでしょう。建設には地域住民も一丸となって協力しました。しかし難問が続出。例えば木製の通水管では水圧で破壊されてしまうため、石の水管を用いることにしたものの継ぎ目の防水に苦心。また、巨大な石橋の重量と水の振動に耐え得る橋脚をどう造るかにも頭を悩ませました。保之助と石工たちは実験と工夫を重ね、水管の継ぎ目に使う特殊なしっくいを考案したり、「熊本城」の武者返しの石垣を参考に頑丈な橋脚を造ったりなど、難問を一つ一つクリアしていったのです。そして着工から1年8カ月後の嘉永7年(1854)、「通潤橋」は完成しました。 「通潤橋」のおかげで白糸台地の農業生産性は飛躍的に向上。「通潤橋」から続く「上井手(うわいで)」、「下井手(したいで)」の2本の用水路が台地にくまなく水を供給するため、次々と水田が開かれ、人々の暮らしは豊かになっていきました。以来160年近く、白糸台地の人々は「通潤用水」とそれによって潤う棚田を大切に守ってきたのです。

白糸台地に暮らす私たちにとって「通潤用水」の手入れは当たり前のこと。年に数回、水路の土砂上げや草切り作業がありますが、「何月何日に作業するよ」と周知すれば、誰一人文句も言わず、時間どおりに集まってテキパキと仕事をこなします。それは「通潤橋」ができた江戸時代から何ら変わらず続いています。用水の水がどんなに大切か、水は私たちにとって“命”そのものだということが皆分かっているんです。 「通潤用水」を通してくれた布田保之助は神様みたいな存在。実際、神社に祭られていますしね。私が小学生の頃は、保之助をたたえる歌が校歌だったし、全家庭に保之助の肖像画を飾っていました。 台地の尾根部を走る「上井手」と裾野を走る「下井手」は、通潤橋を渡ってきた水を途中で低い土地へと分流しながら、この台地を潤してくれています。その水を利用して先祖が棚田を作り、代々大切に守り続けてきました。当たり前のこととして営んできた生活が、いつの間にか“宝”を生み出し、「国の重要文化的景観」の選定を受けたのです。

棚田は本当に美しい。生まれてからずっとここで暮らしている私でさえ、稲刈り直前に黄金色に重なる棚田を目にして思わず息を飲むことがあります。また、ここにはタガメやゲンゴロウ、タナゴなど、今では珍しくなった水にすむ生き物が数多くいます。特に「アブラボテ」という淡水魚は希少な魚で、「通潤用水」が整備されたことによりこの地に生息し始めたといわれています。 農家の高齢化などが進み、「通潤用水」の維持・管理も大変ですが、私たちはこの“宝”を守り、伝えていかなければと思っています。例えば地域外の人に“田舎のファン”になってもらい農業を応援してもらおうとか、将来的には棚田米をブランド化して販売しようとか、みんなで知恵を出し合っているところです。 10月には「全国棚田千枚田サミット」が山都町で開催されます。山都町ならではの景観や取り組みを、全国に発信するいい機会にしたいですね。

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